Share

第26話 もう、その言葉で黙りません

last update publish date: 2026-08-29 19:47:22

 十分前――神楽坂グループ本社、会議室。

 主要株主たちを前に、次の議案を説明していた煌のもとへ、顧問弁護士から緊急の連絡が入った。

 煌は資料を閉じ、すぐに立ち上がった。

「会議を中断します。続きは午後四時から」

「お待ちください」

一人の取締役が、静かに声を上げた。

「この議案は、社長の承認なしでは進められません。今ここで中断するわけにはいかないでしょう」

煌が、その男を見る。

「緊急事態です」

「ですが、会社の重要な案件でもあります」

男は引かなかった。

「秘書に任せればいいでしょう。社長自ら行く必要がありますか?」

煌は男を見たまま、短く答えた。

「急ぐ必要もなかった会議を、急に前倒ししたのは、あなたですね」

男が、一瞬だけ黙った。

煌はその反応を見ただけで、何も言わずに会議室を出た。

エレベーターへ向かいながら、煌が秘書に告げた。

「警備を現地へ。警察への連絡準備と、店内、通りの映像保全を。管理記録と合鍵の所在も確認してください」

「はい。車は地下に待たせています」

煌は、さらに歩調を速めた。

「一分でも早く」

***

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い   第83話 あなたと出会ってからは違います

    「祖父です」  煌は写真へ目を落としたまま答えた。  糀は、写真と目の前の煌を見比べた。  若い頃の宗一郎は、煌ほど表情が鋭くない。それでも、目元や鼻筋はよく似ていた。  宗一郎はカメラを見ていない。七つの器を載せたお膳を抱く祖母だけを見て、笑っていた。  よく見ると、祖母の肩も宗一郎の方へ寄っている。  この二人はどういう関係だったのだろう。 「このお膳は、祖父が澄江さんへ贈ったものです」 「宗一郎さんが?」  煌は、写真の下へ古い便箋を置いた。紙は少し黄ばんでいたが、力強い字ははっきりと残っている。 《いつか、この七つの器に、あなたの料理を盛ってください。誰より先に、私に食べさせてほしい》  最後には、宗一郎と署名されていた。  糀はもう一度、写真を見た。  祖母が誰かにこんな顔を見せていたことも、料理を最初に食べてほしいと約束した相手がいたことも知らなかった。 「お祖父様と、祖母は……恋人だったんですか」 「そうだと思います」  煌はすぐには写真から目を上げなかった。 「祖父は、澄江さんの話をほとんどしませんでした。この写真と便箋も、亡くなったあとに遺品から見つかったものです」 「どうして、二人は結婚しなかったんでしょう」 「分かりません。九条が何に関わっていたのかも、まだ調べられていません」  祖母は糀にも、宗一郎のことを一度も話さなかった。  写真のお膳も、見た覚えがない。祖母は手放したのか。それとも、どこかへ隠したのだろうか。 「祖父は、そのお膳で料理を食べられないまま亡くなりました。七つの料理が完成したのかも、お膳がどこにあるのかも分かりません」 「それが、澄乃七献なんですか」 「祖父の手帳には、お膳の絵のそばに、その名が書かれていました」  糀は、以前読んだ祖母の手紙を思い出した。 《あの子に、あの味を託す》  あの子とは、煌のことだと祖母自身が書いていた。 「あの味って、これのことですか」 「はい。澄江さんが私に託したのは、澄乃七献です」 「どうして、今まで言わなかったんですか」 「九条との問題が片づくまで、あなたには店に集中してほしかった」  婚約のことも、澄乃七献のことも、煌は糀に何も知らせず、一人で片づけようとしていた。 「煌さんは――私を信じていないんですね」  煌が、わ

  • 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い   第82話 祖母が愛した人

    「え……」 糀の心臓が大きく鳴った。 婚約のことは、まだ何も解決していない。煌を許したわけでもない。それなのに、好きでいると言われて、嬉しいと思ってしまった。 こんな時まで嬉しいなんて、自分はどれほど煌を好きになってしまったのだろう。 返事をしたら、食事だけの契約ではなくなってしまう気がした。けれど、その言葉を取り消してほしいとも思えない。 何と答えればいいのか分からずにいると、医師と秘書が医務室へ戻ってきた。 その日は、答えを出さないまま煌と別れた。 翌日、店の営業中も、糀は何度も時計を見てしまった。 煌が来るのは閉店後だ。分かっているのに、引き戸が開くたび、そちらへ目が向いた。 食事だけの契約。その言葉を思い出すたびに、昨夜の告白まで一緒によみがえる。 仕事に集中しなければと思い、糀は包丁を握り直した。 煌は二日近く、まともに食べていなかった。いきなり重い料理は避けたい。けれど、病人のための薄い食事ではなく、おいしいと思って食べてもらいたかった。 鰆を塩麹へ漬け、豆腐のもろみ漬けは、柿と春菊の白和えにした。出汁には焼いた長ねぎの甘みを加える。 献立を考えているうちに、気づけば煌の好きそうな味ばかり選んでいた。 最後の客を見送り、三席のうち一席だけに箸を置く。 まだ約束の時間まで十分ある。それでも、糀は火加減を確かめ、器の位置を直し、また時計を見た。 待っているのだ。 そう認めると、急に落ち着かなくなった。 約束の時刻より少し早く、引き戸が開いた。「こんばんは」 煌は一人だった。いつもと同じ上質なスーツ姿だが、顔にはまだ少し疲れが残っている。「本当に、毎日来るんですね」「そのつもりでお願いしました」 当たり前のように答える煌を見て、糀は困った。店へ来ないでほしいと言った時は、あれほど寂しかった。それなのに、毎日会えると決まった途端、どう接すればいいのか分からない。「体調は、もう大丈夫ですか」「昨日より、ずっと」 煌は用意された一席へ座った。 糀は、鰆の塩麹焼きと白和えを出した。 煌は一口ずつ、味を確かめるように食べた。昨日までほとんど食べられなかった人とは思えないほど、箸は止まらなかった。 鰆を飲み込んだ煌の口元が、ふっと緩んだ。目元まで柔らかくなり、心から幸せそうな顔をしている。 こんな顔をする人だっ

  • 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い   第81話 あなたを好きでいることは、やめられません

    「婚約が終わるまでの、食事だけの契約です。どうでしょうか」  糀は、すぐには答えられなかった。  煌の前には、空になった皿がある。さっきまで青白かった顔にも、少しずつ血の気が戻っていた。  食べてもらえて、ほっとした。  それなのに、明日も、その次の日も自分が食事を作るところを想像すると、胸が苦しくなった。  料理人と客なら、会い続けてもいいのだろうか。  けれど、糀にとって料理を作ることは、ただ品物を渡すことではない。食べる人の顔を思い浮かべ、体調を考え、何なら口にできるかを考える。煌のためなら、きっと毎回、今日のように心配する。  婚約者がいる人を思いながら、毎日料理を作ることになる。 「……ずるいです」  ようやく出たのは、返事ではなかった。  煌がわずかに眉を寄せた。 「何がですか」 「私の料理しか食べられないなんて言われて、倒れたところまで見たら、断れません」  言葉にすると、腹が立ってきた。 「私はまだ、あなたを許していません。それなのに、食事を作らなければ、また倒れるかもしれないと思わせるんですか」 「あなたに責任を負わせるつもりはありません」 「でも、もう心配してるんです」  声が震えた。  放っておけばいいと思ったのに、鮭を焼き、骨を取り、小さなおにぎりを握った。ここまで急いで来たのも、煌を失いたくなかったからだ。 「何も食べられないままなのに、知らないふりなんてできません」  煌はしばらく黙って、糀を見つめた。 「すみません」  低い声だった。 「ですが、断られたくないと思っているのも事実です」  糀は顔を上げた。 「私は、あなたの料理が必要です。それだけではなく、あなたに会いたい」  煌は目を逸らさなかった。 「料理人と客でもいい。あなたに会えなくなるのは嫌です」  低くなった声を聞いた瞬間、店で唇を重ねた時の煌の顔を思い出した。  あの夜の続きをしたいと言われて、自分も同じ気持ちだと思った。婚約者のことを知らなかったとはいえ、あの気持ちまで嘘にはできない。  頬が熱くなり、糀は煌から目を逸らした。  勝手だと思った。  婚約を黙っていたくせに、そばにいたいと言う。けれど、きれいな理由だけを並べず、自分の欲を認めた煌を嫌いにはなれなかった。  むしろ、会いたいと言われたことが嬉

  • 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い   第80話 婚約が終わるまで、食事だけの契約を

    「三浦様、突然のお電話を申し訳ありません」  電話をかけてきたのは、煌の秘書だった。 「社長が、この二日、ほとんど何も召し上がっていません。先ほど、会議中に倒れました」 「倒れた?」 「意識はあります。今は社内の医務室です」  糀はスマートフォンを強く握った。  婚約を隠していた煌が悪い。これだけ傷つけられたのだから、放っておけばいい。  そう思おうとしたのに、できなかった。 「すぐに行きます」  電話を切ると、玲奈が糀を見ていた。 「今の電話、誰から?」 「煌さんの秘書です。煌さんが倒れたそうです」  玲奈の顔色が変わった。すぐにバッグからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。 「私には、何も来ていないわ」  もう一度画面を確かめた玲奈が、糀をにらんだ。 「私が婚約者よ。煌さんが倒れたなら、最初に私へ連絡するのが当然でしょう。どうして私ではなく、あなたなの?」  糀にも答えられなかった。けれど、秘書が頼ったのは、煌の婚約者ではなく糀だった。 「会わないと言ったばかりでしょう。行かせないわ」 「倒れた人を放ってはおけません」 「そうやって、また煌さんの気を引くつもり?」 「違います。私は料理人です。食べられない人を、放っておけません」  糀が扉へ向かうと、玲奈の声が背中を追ってきた。 「では、また勝負で。あなたの店が、それまで残っていればね」 「店は、潰させません」  糀は振り返らず、試食室を出た。 ***  店へ戻ると、味噌に漬けておいた鮭を焼いた。骨を丁寧に取り、ほぐした身を入れて、小さなおにぎりを握る。二日も食べていないなら、一度にたくさんは食べられない。  腹が立っている。まだ許していない。  それでも、煌に食べてほしかった。  医務室へ入ると、煌は白いベッドに腰掛け、スマートフォンで仕事の連絡を返していた。顔色は悪い。それでも糀を見ると、驚いたように立ち上がろうとした。 「寝ていてください」 「どうして、ここへ」 「何も食べていないと聞きました」  煌が秘書を見た。 「余計なことを」 「怒るなら、食べてからにしてください」  糀がおにぎりを差し出すと、煌は黙って受け取った。  一口食べたところで、煌の手が止まった。 「この具……」 「どうしました?」  煌は、おにぎりの中

  • 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い   第79話 もう許さない。あなたの店は、私が必ず潰すわ

    「どうするの?」  玲奈は、糀が迷うことまで分かっていたように微笑んでいる。  煌を諦めれば、『澄乃』の名も祖母の資料も戻ってくる。  もう九条と争う必要もない。  それが一番いいのかもしれない。 「私は……」  糀は答えられず、うつむいた。 「迷うことなんてないでしょう。煌さんと二度と会わない。それだけで、あなたは欲しかったものを取り戻せるのよ」  玲奈は糀に考える隙を与えず、畳みかけた。 「煌さんだって、あなたがいなくなれば私のところへ戻る。すべて元どおりになるの」  本当に、そうなのだろうか。  糀は顔を上げた。 「その前に、一つ聞いてもいいですか」 「何?」 「玲奈さんも、煌さんのことが好きなんですか」  玲奈の笑みが止まった。  すぐに答えると思っていた。けれど、玲奈はわずかに目を見開き、糀から視線を逸らした。 「……私は、煌さんの婚約者よ」 「それは知っています」 「なら、聞く必要はないでしょう」  好きだとは言わなかった。  玲奈ほど美しく、家柄も立場も申し分のない人なのに、「好き」とは言わず、自分が婚約者だということしか言わなかった。  玲奈は、煌が好きなのだ。  けれど、煌も同じだとは思っていない。  それなら、自分は玲奈から煌を奪うことになるのだろうか。  修司と美咲にされたことを、今度は自分が玲奈にするのだろうか。  やはり、煌を諦めるべきなのかもしれない。  玲奈は家同士が認めた正式な婚約者だ。糀は離婚したばかりで、蒼太との関係も、三席の店も、ようやく取り戻し始めたところだった。  これ以上、難しい恋へ自分から踏み込む必要はない。  婚約を隠されていたことも、まだ許せなかった。この先、もう一度信じられるのかも分からない。  今ここで約束すれば、もう傷つかずに済む。  そう思った瞬間、煌が座っていた一席が浮かんだ。 《ちゃんと、何か食べましたか》  打ったのに送れなかった言葉まで思い出す。  会わなければ、忘れられるのだろうか。  煌が何を食べたのか、今どこにいるのか、もう気にせずにいられるのだろうか。  無理だった。 「……私も、煌さんが好きです」  玲奈の顔から、笑みが消えた。 「何を言っているの。私が婚約者なのよ」 「分かっています」  糀は、震えそうにな

  • 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い   第78話 その代わり、煌さんには二度と会わないで

     翌日、営業を終えた糀は、煌がいつも座っていた席を見た。三席しかないのに、一席が空いているだけで店の中ががらんとして見える。  外で車の音がするたび、引き戸へ顔を向けてしまう。来るはずはない。来ないでほしいと言ったのは糀だ。  それでも、煌がいない店は寂しかった。  糀はスマートフォンを取り出し、煌との画面を開いた。 《ちゃんと、何か食べましたか》  そこまで打って、指が止まった。  心配だと伝えたら、煌はまた来るかもしれない。  それを期待する自分に気づき、文字を一つずつ消した。 ***  その翌日、糀は一人で九条グランドホテルへ向かった。  招待状には、勝負の前に試作料理を確認できるとあった。相手の料理を知らずに条件を決めるつもりはなかった。  ロビーでも、糀は行き交う人の中に煌を探してしまった。  煌は来なかった。  来ないでほしいと告げたのは糀だ。隣に立たれれば、婚約のことを考えてしまう。  それなのに、本当は来てほしかった。  通されたのは、一般客の入れない試食室だった。  白い布をかけたテーブルの奥に、九条ホテルの総料理長、榊原征士郎が立っていた。六十歳近いが、白い調理着には皺一つなく、背筋も伸びている。 「三浦糀さんですね」 「はい」  榊原は糀へ頭を下げた。 「九条家が正当に取得した資料だと聞いています。出所に争いがあることは、昨日知りました」 「祖母の料理を受け継いだのは、美咲さんではありません」 「その点は、ホテルへ確認します」  言い訳も、美咲をかばう言葉もなかった。 「ただし、今日の料理は私が作りました。味については、私にお尋ねください」  運ばれてきたのは、黒毛和牛の炭火焼きだった。  熟成味噌が艶を帯び、肉を切ると中心に赤みが残っていた。  美咲の料理とは違う。  皿を置いた瞬間から、味噌、酒粕、焦がした葱の香りが順に届く。何十年も料理を作ってきた人の一皿だと分かった。  糀は一切れを口へ入れた。 「……おいしい」  和牛の脂がほどけ、そのあとから若い味噌の甘みが来る。最後に、発酵した魚のような深い旨みが残った。  祖母の澄乃返しに近い。  悔しかった。  同じではない。味噌の香りが強く、肉を飲み込んだあとも舌に残る。祖母は肉の味を先に出し、調味料は最後にわずかに残した

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status